自然に 2
前記事[自然に~1]に続きます。ヴィヴィアン先生の言葉を思い出し、考えています。
y:先生がクラスで話されていたメモ。
カザルス氏は、全くビブラートをかけないということも良くやっていた。
彼の表現はベルカント唱法的なものでなく、
ただ話す、というようなスタイルが表現に入っていた。
彼のチェロが話し、時々つぶやいた。
音のレンジがものすごく多様だった。
コントロールは選択できる。
他のことと格闘しないで、選んだことをやる。
1つ1つの音をやればいいだけ。
今の音から生まれてくるもの。
「今しかない」
次来ることに対して、今できることはない。
今にいることをする。
「カザルス物語」「カザルスとの対話」という本など、
チェロにあこがれていた高校生の頃に読んでいました。
そんな記憶もどこか深くにあったようにも思います。
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≪「自然に演奏してください」パブロ=カザルスの教えとアレクサンダーワークの共鳴 (2011年第1刷発行)≫から授業とのつながりで興味深いところを引用してみました。
本文は対話方式です。
『』はカサルス氏のことば VM「」はヴィヴィアン・マッキー先生
JAはジョー=アームストロング氏
y:私の補足ガイド・コメントです。
特にキーワードになりそうなところを太字にしてみました。
y:ヴィヴィアン先生は、ハイドンのD-durから学んでいます
VM
コンチェルト第二主題はじめのフレーズにあるグルペット(ターン)ではすべてに装飾音があります。
グルペットは本来そういうものでアクセントを持って始まります。
長い音の中に小さな音がある時は常にアクセントを伴わなければならないと教わりました。
そのための運動を見ていくと、そこで何か斬新なすごく大きなエネルギーがいるとわかりました。
はじめてそのように演奏した時は、まったく違った感じでした。
やっている最中に、まるで木槌で木の実を割るような感じでした。
しかし、何が起きたか、すぐにその結果が出ます。
小さい音をものすごく元気よく弾くと、その音はくっきり際立ちます。
そうすると装飾音がうっとりするほど美しくなります。
そうしたことを体験しました。
1回の弓でなるべくたくさんのクレッシェンドとディミニュエンドをやるように学んでいきます。
単純に平らな長音など音楽には存在しない、とカサルス氏は言われました。
音楽の音は必ず行くか来るかどちらかになります。
単にまっすぐな長い音だけが存在する場所はありません。
人間の耳は、こういう単調な音についていかないし引きつけられません。
一方で、さまざまなクレッシェンドとディミニュエンドを学んでいけば、様々な弓使いを学んでいることになります。
やっているとだんだん無数のニュアンスがほしくなります。本物の音楽にはそれがあります。
・・・1つずつすべてが美しいのです。
曲の断片を演奏しようとしていたときの出来事を話します。
三つの音にじっくり時間をかけて、すべての輪郭が完璧に象られ、完璧に色彩が彩られるように観察して、クレッシェンド(だんだん強くなる)とディミニュエンド(だんだん弱くなる)も同じようにやっていきました。
ある特別なものか、別ものかになりますが、1つの音がダメだと全部ダメになります。
なぜなら、すべての音が1つづつ、こちらへやってくるか、あるいは向こうへ行ってしまうかのどちらかになるからです。
とても特別なカサルス流の演奏として、この行ったり来たりが私の心に残っています。
単なるアップビートやダウンビートを超えて、特殊な別次元があります。
音楽はただ鳴っているというよりも、遠くへ行ったり我々に近づいてきたりできるからです。
そこが得心できれば、私の表現で言うところの「ペース」が出来上がってきます。
テンポとは別のものです。
・・・小さな断片を光に当て賞賛して美しさを知るということをやっていた・・・。
・・・その結果として色彩や陰影、生地までもが見えてくるのです。
きつくするところ、ゆるくするところ、展開するところなどいろいろあります。
しっかり時間を取って実験してから、それを全部実際あるがままに返してやるのです。
・・・自分に何が必要でなにができるのか、どう働きかけるのか、そのときになれば、やることはおのずから表れます。
JA
何に焦点を当てているのかわからないことは一切やらない。
なんとなくそのまま続けると、実際は変えていかなければならなく箇所が温存され、それではむしろ悪い癖が助長されるから、そのまま続けるのを<やらない>、それがカサルス氏の練習方法でしたか?
VM
はい、おっしゃるとおりです。
VM
主に「今ここに」あるためにワークする、するとまた次のワークがやってくるという具合でした。
1度に1つずつだったのです。
人生がそうであるように。
「現在起こっていることはこれです。次に起こることはあれです。と思ったらいかがでしょうか。
VM
非常に少ないカサルス語録のなかに『必要なことだけやればよろしい』というのがあります。
「それは賢いアイディアだ」と思いました。
時々必要なことはずっとずっと向こうに、自分がやったこともないくらい遠くにありました。
必要がある、だから私はやらなければいけない 、と。
しかし大抵の場合は以前やり過ぎていたことを減らしていく作業だったようです。
何事も、こうやらなければいけない、というのはありませんでした。
実に、完全に「結果にあわてていかない人(not-endgainer )」に生まれ変わっていました。
それまでの学びをしてきた以上そうならざるを得ませんでした。手段に忠実であることを学びました。
十分な注意を払って適切な手段を用いれば、結果にあらわれ、ほしいものは必ず手に入ると、F・Mアレクサンダー氏も述べています。
何かを計画して成し遂げるならば、十分に注意を払い、全体として上手くいくようにするのです。
自分の欲しいものがあるなら、手に入れる方法をあらかじめ知っておく必要があります。
何を演奏したかを自分の耳で実際に聞けるようにし、再学習していかなければなりませんでした。
こうなるはずだという思いが強すぎると、その思いに覆われたままになって、実際に自分の演奏している音を聞かないという勘違いがしごく簡単に発生します。
まず計画しなければなりません。
その後に実行します。
良かったか、良くなかったかわかります。
計画が十分によければ、当然結果は良くなるに違いありません。
必要なことをやるには大変な努力が要ることもあり、しばしば以前のやり方以上にやらなければならないことも起きると分かりました。
やることがずっとたくさんありました。
あるいは一方で、必要なことだけをやるにあたり、やっていることをずっとずっと減らす場合もありました。
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y:
生徒さんと会話していて、
ときどき面白いことがあります。
レッスンで生徒さんに
「演奏する時に、ずっといちいちこれを考えるのですか?」
と聞かれることがあります。
例えばボーイングでは、
発音する瞬間や、弓を返す時の意識などです。
初めての時はえっ?!と思いましたが、
何回か聞かれて、そうかなるほど思いました。
いつかできるようになったら、
考えの中に含まれて、必要になったとき、考え続ける労力は減っていくけれど、
できることが増えるってことは、
考えられることが増えていくってことなのではないかしら。
扱えるようになる考え。
そのときそのとき、「必要なことをする」考え。
全自動で、いつのまにか弾けるようになったらいいなと思うでしょうけれど・・・(笑)
やることは自分の中にあることと、取り入れた考えですね。
また一方で、必要かどうか考えることは、
とても大切だなとも思いました。
楽しむこと、興味を持つことが上達の秘訣だそうです。
1つ1つ何をしたらいいか、
必要なことをを丁寧に、
楽しんで考えていきましょう!
「自然に 3」へ続きます。
最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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